2000年7月
第二次大戦中のシキホール島の様子について、この島に長く住むヒバロさん(Mr. Hibbarod Flora)から聞くことができた。
ヒバロさんは、14才で終戦を迎えた。
第二次大戦中の1942〜1944年にかけて、日本軍が100名ほど駐屯していた。各村に憲兵として、配備されていた。ゲリラもいたらしいが、大した衝突は無かったらしい。 日本でも良く知られているレイテ島の激戦や、親、兄弟を日本軍に殺された人がたくさんいるネグロス島の激戦とは、ずいぶん様子が異なる。
日本軍はマニラを占領し、マッカーサーを追いやると、シキホール島へも南下。ラレナ(Larena)を本拠地にして、各地に駐屯した。ラレナとラジ(Lazi)の町には、日本人学校を開きそれぞれ、50人くらい生徒がいたそうだ。生徒は子供から60才くらいまで、多岐にわたっていた。ヒバロさんの先生はナガラと言う憲兵。カタカナを使って日本語を教えたそうだ。ヒバロさんは、ここで2年間、日本語を学んだ。
1944年、”I shall return.”のマッカーサーがレイテ島に上陸したという知らせが入ると、日本軍はさっさと、ネグロス島のドゥマゲッティへ、退散してしまったそうだ。このため、シキホール島では、戦闘はなく、巻き添えになる現地人もいなかった。おかげで、現在も反日感情は全く見られず、皆フレンドリーだ。
また、この時、日本軍は弾薬庫にたくさんのダイナマイトを置き去りにして行った。島民は、そのダイナマイトをこぞって、家に持ち帰ったそうだ。 これが、ダイナマイト漁法の起源になったようだ。
(→ ダイナマイト漁法の詳細はこちら)
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日本軍の弾薬庫があった場所。今はシキホール州立大学(Siquijor State University)のプール(未使用)になっている。弾薬庫の中に、ダイナマイトをたくさん残し、日本軍は逃げて行った。 |
さて、時間は戻るが、第二次大戦の前に、この島に移り住んでいた日本人がいた。鈴木さんという名前で、フィリピン人の奥さんがいた。彼は1930〜1944年にかけて、この島に住んでいた。ヒバロさんの話では、この鈴木さんが、はじめてこの島に住んだ日本人とのことだ。かれは玩具や機械などを扱う商人だった。第二次大戦で日本兵が来ると、彼は日本軍への協力を頼まれたが、それを断り、人里離れたところへと移り住んで行った。そして、1944年、島西南部のサン・ファン(San Juan)の町で、日本軍と衝突し殺されてしまった。彼の子孫は、今でもこの島に住んでいる。
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ヒバロさんの家。今はこの中の1部屋を借りて一人住まい。娘3人。息子1人。別のところで紹介しているJoeの親戚。 | ヒバロさんは今でも現役のエンジニア。火を燃して、こてを暖め、修理のため、エンジン内部のコイルを半田付けしていた。 |
2000年4月28日 ヒアリング実施